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雨と紫陽花

 ざあざあと雨が降り注いでいる。
 窓の外から途切れることなく聞こえてくる雨音を耳に捉えながら、美雨は布団の上で呆然としていた。
 真っ白いシーツに広がった大きな世界地図。水色のパジャマはズボンが濃いブルーに色を変えて冷たくなっている。
 どうしよう。
 声にならない声が唇からこぼれ落ちる。
 鼻の奥がつん、となってきて、泣き出してしまわないように息を深く吸う。すると、おしっこのにおいが鼻を突いて、目元にじわりと涙がにじんだ。


「どうしよぉ……」


 困り果てた小さな声が漏れる。
 四年生にもなっておねしょをしてしまった。小学校に上がってからは一度もしたことがなかったのに。お母さんに怒られてしまうかもしれない。


 そう思った直後、美雨は大変なことに気付いた。
 ここは自分の家ではなくて、汚してしまったのはいつも使っている布団ではないのだ。
 見慣れない部屋の中で、そろそろと視線を巡らせる。
 布団が敷いてあるすぐ横のベッドで、中学二年生の「沙苗おねえちゃん」が静かに寝息を立てていた。


(よかった……おねえちゃん、まだ寝てる……)


 ほっと胸を撫で下ろすが、事態は何も解決していない。
 濡れた布団もパジャマもなんとかして片付けなければいけない。でも、どうやって?
 涙をこらえながら一生懸命考えていると、突然、ピピピピと大きな音が聞こえてきて、びくっと肩が跳ねた。慌ててタオルケットを引き寄せて、濡れたシーツとパジャマを隠す。
 部屋の中に鳴り響いていたアラーム音は数十秒で止まった。ベッドで寝ていた沙苗が、もぞもぞと身体を動かしている。


「んー……あれ、美雨ちゃん、もう起きてたの? 早いねぇ……」


 眠たそうな声が耳に入ってきた途端、こらえていた涙が、こぼれた。


「……っ」


 ぽたぽたと涙が落ちてきて、タオルケットに小さな染みを作る。美雨は深く俯いて唇をきゅっと引き結んだ。


「美雨ちゃん? どうしたの?」


 彼女の様子がおかしいことに気付いた沙苗が、ベッドを降りてきて布団の傍らに膝をついた。


「どこか痛いの?」


 心配そうな声音に、ふるふると首を振る。


「……じゃあ、どうして泣いてるの?」


 優しく問いかけてくる声に答えることができない。俯いて静かに泣いたままでいると、視界の端で、ふいに沙苗の手がタオルケットに伸ばされた。


「だ、だめっ」


 とっさに声を上げて、彼女の手を掴んでしまう。
 おそるおそる顔を上げると、沙苗はびっくりしたような顔で何度か両目を瞬いてから、ゆっくりと表情をやわらげた。


「もしかして、お布団汚しちゃった?」
「……うん」


 こくん、と思わず頷いてしまう。


「そっか」


 沙苗は優しい表情のまま、美雨の頭に手を伸ばした。そっと髪を撫でられる。


「大丈夫だよ。おねえちゃんに任せて」


 にこっと沙苗は微笑むと、濡れたパジャマをタオルで拭いてからお風呂場まで美雨を連れていってくれた。

***

 午後になるといつの間にか雨は上がっていた。
 リビングのソファで、美雨は膝を抱えて小さなため息をついた。テーブルの上には宿題の漢字ドリルを開いているが、少しも進んでいない。


 今朝の失敗を引きずって、ずっと気持ちが沈んでいた。おねしょをしてしまったことは、沙苗から彼女の母に伝えてくれたみたいだ。怒られるかと思ったけれど、伯母は「気にしなくていいのよ」と優しく言って濡れた布団を片付けてくれた。
 朝から雨が降っていたから布団を外に干せないのに、どうするんだろう、と思っていたけれど、パジャマやシーツは洗濯をしたあと乾燥機にかけて、布団は布団乾燥機を使って乾かしているのをちらっと見かけた。


 ――いい子にしているとお母さんと約束していたのに、いきなり迷惑をかけてしまった。


 従姉の沙苗おねえちゃんの家に泊まりに来たのは昨日からだ。
 父の県外出張に母もついていくことになったために、数日の間、隣町にあるこの家にお世話になることになった。


「伯母さんの言うことを聞いて、ちゃんといい子にしているのよ。おねえちゃんのことも困らせちゃだめよ」
「うん、大丈夫だよ!」


 はっきりと頷いて両親のことを見送ったのに――全然大丈夫ではなかった。
 はあ、ともう一度ため息をついてしまう。


「あ、いたいた。みーうちゃん」
「沙苗おねえちゃん? なあに?」


 ふいに沙苗がリビングに入ってきて、美雨は居住まいを正した。


「あのね、雨止んだし、ちょっとお散歩行かない?」


 にこにことした笑顔を拒むことはできなくて、こくんと頷くと、彼女に手を引かれるまま外に出ていった。

***

 連れていかれたのは、沙苗の家から歩いて十五分ほどのところにある大きな公園だった。
 雨が上がったためか、ジョギングをしている人や犬の散歩をしている人、駆け回って遊んでいる子どもたちの姿がちらほら目に入る。


「こっちこっち、いいもの見せてあげる!」


 沙苗は、美雨の手を引きながらどんどん公園の中を進んでいく。


「ついた! 美雨ちゃん、見て」


 足を止めて、顔を上げる。――視界一面に、紫陽花が広がっていた。
 青や水色、紫、ピンクに白。色とりどりの紫陽花がグラデーションのようになって、遊歩道沿いに数え切れないほど咲いている。


「すごーい! きれい!」


 思わず声を上げると、沙苗はどこか誇らしそうに笑顔を浮かべた。


「そうでしょう? いまが一番綺麗なんだよ」
「そうなんだ! これを見せにきてくれたの?」
「それもあるんだけど……もうひとつ」


 沙苗が、ふいに膝を折った。耳を貸して、と手招きされる。
 首を傾げつつ顔を近付けると、沙苗はそっと耳打ちしてくれた。


「あのね、私もね、六年生のときにおねしょしちゃったことあるんだよ」


 予想していなかった囁き声に目を丸くしてしまう。
 沙苗の顔を見ると、彼女は美雨の表情を見て柔らかく目を細めた。


「だから気にしなくていいんだよ」
「……うん」
「恥ずかしいから、美雨ちゃんのお父さんとかお母さんには内緒にしてねっ」
「……うん。言わないよ」


 ほんの少し頬を染める沙苗につられて、美雨もはにかみながら表情を緩めた。
 落ち込んでいた美雨を元気づけるために、紫陽花の綺麗な公園まで連れてきてくれて、彼女の失敗まで教えてくれた。
 沙苗の優しさが嬉しくて、胸の奥がほんのりとあたたかくなる。


「のど渇いちゃったね! ジュース飲もうか」


 おごっちゃうよ、と雰囲気を変えるように明るく笑い、沙苗が踵を返す。


「うん!」


 美雨も笑顔で頷いて、彼女のあとを追った。

 自販機で買ってもらったオレンジジュースを一気に飲み干し、沙苗と一緒に公園の中で遊んだ。散歩している犬を触らせてもらったり、アスレチックではしゃいでいるうちに、気付いたら落ち込んでいた気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。


「あ……雨?」


 沙苗の声が耳に入って、思わず空を見上げる。
 ぽつぽつと、落ちてきた滴が手や肩を濡らした。雨粒は次第に勢いを増し、次々降り注いでくる。


「美雨ちゃん、あっち行こう!」
「あ、うんっ」


 東屋の方を指さされて、慌てて走っていく。屋根があるおかげで雨宿りできるが、ほんのわずかの間で本降りになってきてしまった。空には分厚い雲がかかっていていつ止むかわからない。遊びに夢中になっていたせいで、再び雨が降りそうになっていたことにまったく気付かなかった。


「濡れちゃったねー」


 沙苗が苦笑しながら、タオルハンカチで濡れた髪や肩を拭いてくれる。


「傘持ってくるの忘れちゃった。止むまで座って待ってようか」


 美雨を拭いたあとに自分の髪を拭きながら、沙苗はベンチに腰を下ろした。促されるまま美雨も隣に腰を下ろす。
 とりとめのない話をしながら雨宿りを続けた。雨音が地面を叩く音がやけに耳に入ってくる。雨のせいか冷たい風が腕を撫でて、少しだけ肌寒い。
 ぶるっと身体に震えが走るのを感じて、美雨はちら、と視線を下に落とした。キュロットスカートから伸びる剥き出しの脚。膝頭をこっそりとすり合わせる。


(……トイレ、行きたいかも)


 下腹部には無視できない重さを感じていた。さっきジュースを飲んだからかな。そういえば、出かける前にトイレに行かなかった。最後にトイレに行ったのはいつだったけと思い返す。お昼を食べたあと、かもしれない。
 意識すると尿意が強くなったような気がして、美雨は小さく頭を振った。まだそんなに行きたいわけじゃない。ちょっと行きたいような気がしただけ。全然我慢できる。


 公園内のトイレは目に見える範囲にはなく、この雨の中では探そうにも濡れてしまうからすぐに行くことはできない。
 なんとか尿意から意識を逸らそうと頑張ってみるが、一度気付いてしまうとどうしてもそのことばかり気になってしまう。そわそわと小さく身体を揺すりながら、ちら、とさりげなく沙苗に視線を向けた。


(トイレ行きたいって、言おうかな……でも、雨降ってるし、おねえちゃんのこと困らせちゃうかも……)


 こんな状況で急にトイレに行きたいなどと言い出したら、きっと沙苗のことを困らせてしまう。それに、雨の中ずぶ濡れになってまでトイレに行くのもいやだった。そんなに我慢できないほどおしっこがしたいのだと、彼女に思われてしまうのも恥ずかしい。


「雨、止まないね。お母さんに迎えにきてもらおうかな……」


 沙苗がぽつりと呟いた。その言葉に一瞬期待するが、ジーンズのポケットに手を入れた沙苗は落胆したように肩を落とした。


「携帯忘れちゃった」


 美雨もがっかりしたが、態度には出さないように気をつけた。さりげなく、なんでもないことのように口を開く。 


「雨、止むの待つ?」
「うーん……そうだね。濡れて帰ると風邪ひいちゃうかもしれないし、もう少し待ってよっか」
「……うん」


 美雨は小さく頷いて、寄せた膝の上にそっと手を重ねた。やっぱり、トイレに行きたいとは言い出せない。


(早く雨止まないかな……)


 お腹に重さを感じながら、降り続ける雨をじっと眺めた。

***

(どうしよう、おしっこ……)


 どのくらいの時間が経ったのか。雨はちっとも止む気配を見せない。
 微かに膨らんだ美雨のお腹には、時間の経過とともに水分がそそぎ込まれていた。
 服の上からこっそりと膀胱のあたりを押してみると、弾力を感じた。一気にぞわぞわと強い尿意が押し寄せてきて、自分の行為を一瞬で後悔する。足の付け根を手で押さえたくなったが、そんなことをしたらトイレを我慢していることが沙苗にバレてしまう。
 ぐっと太腿に力を込めて、なんとか耐えた。下着に濡れた感触はまだないが、限界が迫っていた。


(おしっこ、おしっこ……! 無理、もう我慢できない!)


 これ以上我慢し続けたら、座ったままおもらししてしまう。
 もう濡れてもいいからトイレに走ろうと思い立ち上がる。


「美雨ちゃん!?」


 沙苗がびっくりしたように声を上げる。美雨は口を開くこともできず足を踏み出した。その瞬間。


「あ……」


 ぱちん、と何かが弾けたみたいに、一瞬で下着が熱くなった。じゅ、じゅうと温かい感触が布を濡らしていく。熱い奔流が下着の中で渦巻いて、溢れ出したものがキュロットスカートの中に広がっていく。
 雨音に紛れて水音を立てながら、脚を伝い落ちていった熱いおしっこが足下の乾いた地面に水たまりを作り上げていく。


(おしっこ、出てる、出ちゃった……)


 美雨は深く俯いて、服の裾をぎゅっと握り締めていた。恥ずかしいのに、気持ちいい。ずっと我慢していたおしっこがお腹の中から出ていって、身体が軽くなっていく。ぴちゃぴちゃと水滴が滴り落ちる音が、なぜか雨音よりも大きく耳についた。


「美雨ちゃん……」


 沙苗が、そっとベンチから立ち上がった。目元を濡らした美雨の顔を優しく覗き込んでくる。


「おトイレ行きたかったの? ごめんね、気付かなくて」
「……ごめ、なさぁい……っ」
「よしよし、大丈夫だよ。泣かないで」


 泣き出してしまった美雨の頭を沙苗はそっと撫でてくれる。
 ひっくひっくと泣きじゃくる美雨のことを叱ることもなく、落ち着くまで沙苗はただ静かに傍にいてくれた。

 気が付くと雨足は弱くなり、しばらくすると雨は上がった。


「雨、止んだね。帰ろっか」
「うん……」


 差し出された手を恥ずかしがりながら掴む。東屋を出て黙ったまま歩いていると、ふいに沙苗が足を止めた。


「あっ、そうだ! 水たまりで転んだことにしちゃおう?」
「え……?」
「そうすればお母さんにもバレないよ。汚れちゃうけど、ちょっとそこに座ってみて?」
「う、うん」


 促されるまま近くの水たまりにお尻をついてキュロットスカートを汚してしまう。数秒で冷たい水が下着にまで染み込んできて、沙苗に手を引かれてすぐに立ち上がった。泥水に汚れた下半身は、確かにおもらしをしたようには見えないかもしれない。


「うん、これでおもらししたってわかんないよ! 失敗しちゃったことは、おねえちゃんとの秘密にしようね」
「秘密……?」
「うん。絶対誰にも言わないよ。約束」


 手を差し出されて、小指を絡める。指切りげんまんをして、指を離す。にこっと微笑む沙苗につられて、美雨も笑みをこぼした。
 二度も粗相をしてしまったのに、怒ったり呆れたりしないで秘密の約束をしてくれる彼女のことが大好きだと思った。


「……沙苗おねえちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」


 二人で少しだけ笑い合ったあと、手を繋いで雨上がりの帰り道を歩いていった。

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