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プールにて

 ぎゅうっと痛いほどに強く手を握られ、柚樹は思わず後ろを振り向いた。
「綾音ちゃん? ……どうした?」
「……っ、」
 綾音は顔を深く俯けて、何かに耐えるように彼の手を握り締めていた。気分でも悪くなったのかと焦るが、よく見ると彼女は肩を震わせていた。もしかして、と思い水面に視線を移す。綾音は水の中で落ち着きなさげに膝を擦り合わせていた。
 彼女が何に耐えているのか、思い浮かぶものはひとつだけで。
「トイレ?」
 耳元でそっと訊ねると、綾音は耳まで真っ赤になった。
 柚樹から見ると小さな身体が大きく震える。綾音は助けを求めるかのように顔を上げると、目に涙をためて微かに頷いた。
 柚樹はとっさに周りを見渡したが、プールの中は混雑していてすぐにはプールサイドに上がれそうにない。綾音は繋いでいない方の手をぎゅっと握り締め、唇を噛んでいた。
「大丈夫? 動けそう?」
 首を振る返答が返ってくる。かろうじて平静を保っているようにも見えるが、もしかするとかなり切羽詰まっているのかもしれない。
 どうにかしてあげたいが、この状況ではどうすることもできない。
 もっと早く言ってくれればよかったのに、と思ってしまうが、彼女のことだから恥ずかしくて言い出せなかったのだろう。付き合い始めてまだ三ヶ月ほどだが、彼の前でなかなかトイレに行きたいと言えない性格であることは理解しているのに。自分も配慮が足りなかった。
 このまま、無理に彼女を連れてプールを上がり、トイレに向かうのは現実的ではないだろう。きっと途中で間に合わなくなって余計に恥ずかしい思いをさせてしまう。
 せめて周りの人から少しでも距離を置くように、柚樹は綾音をそっと抱き寄せた。
「ゃ……!」
 突然動かされたせいで我慢が効かなくなったのか、綾音が顔を歪める。しかしすぐに堪えるように、太腿をきつく寄せた。ほとんど密着している状態で向かい合う。
 綾音は彼の肩に顔を埋めるようにして、ぷるぷると震えていた。
「……ん、も、できな……」
 微かな呟きが耳に入る。
 大丈夫だと言うかのように、柚樹は彼女の髪を優しく撫でた。
 ぶるるっと、綾音の肩がふいに大きく震えた。彼女は悲鳴を飲み込むように歯を食いしばって、ぎゅっと目を瞑っている。縋り付いてきた綾音を抱き留めると、ほどなくして腰の辺りの水がもわあっと温かくなるのを感じた。
(う、わ……これは、ちょっと……)
 しょろしょろと流れてくる水ではない液体。その温かい感触になんとも言えない気分になる。けれど当の綾音は耐え難い羞恥心を感じているはずで、柚樹は必至に理性を総動員した。
 僅かな時間が経ち、温かい水流の流れが止まる。
「……大丈夫?」
 それまで身体を硬くしていた綾音がほっとしたように力を抜いたので問いかけると、小さな頷きが返ってきた。
「先ぱ……ど、しよ……こんなとこで、漏らし……」
「大丈夫だよ。たぶん誰にもバレてないから」
 いまにも泣き出しそうな声で呟く綾音を安心させるように囁く
 幸い、周囲にいる人たちは遊ぶのに夢中で彼女が粗相をしたことは気付いていないようだった。
 ひとまず、早くプールから上がらせた方がいいだろう。
「俯いて具合悪そうにしてようか」
「え、」
「大丈夫だから」
 戸惑う綾音に告げ、横抱きで抱え上げる。
「すみません、連れが具合が悪くなったみたいなので通してください」
 そう言って人混みを掻き分け、水の中を歩いていく。
 泣きそうな顔で震えている彼女の姿は、冷えて具合が悪くなったようにも見えるだろう。なんとかプールサイドまで辿り着き、そっと下ろすと綾音はその場にぺたんと座り込んだ。
「綾音ちゃん、大丈夫? 早く気付いてあげなくてごめんね?」
 俯いて顔を見せてくれない彼女の髪を梳くように撫でる。しばらくそうしていると、綾音はゆっくりと顔を上げた。濡れた前髪が額に張り付いている。八の字に眉を下げた表情はいまにも泣き出しそうで、けれど必死に涙は零すまいとしているのがわかって、そんなところがまた健気で可愛らしいと思ってしまう。
「先輩、ごめんなさい……また、迷惑かけちゃって」
「迷惑だなんて思ってないよ」
 涙目になっている綾音に、にっこりと笑いかける。
 それは本心だった。初めて会ったときも、初デートのときも。彼女が粗相する姿は何度か目にしていたが、迷惑だとも、嫌だとも、思ったことは一度たりともなかった。
 今日、プールに誘ったのは自分だ。受験勉強続きの夏休み、遠出は難しくてもせめて可愛い恋人と近場で息抜きに遊びたいというお願いを彼女は叶えてくれた。想像していた以上に可愛い水着姿を見せてくれて、他の人の目に少しも入れたくないと思うくらいだった。
 そんな綾音を泣かせてしまうことは忍びなかった。
「……シャワー浴びてきて、お昼にしようか?」
 落ち着いたのを見計らって声をかけると、綾音はようやくぎこちない笑顔を見せてくれた。

プールにて

 ぎゅうっと痛いほどに強く手を握られ、柚樹は思わず後ろを振り向いた。


「綾音ちゃん? ……どうした?」
「……っ、」


 綾音は顔を深く俯けて、何かに耐えるように彼の手を握り締めていた。気分でも悪くなったのかと焦るが、よく見ると彼女は肩を震わせていた。もしかして、と思い水面に視線を移す。綾音は水の中で落ち着きなさげに膝を擦り合わせていた。
 彼女が何に耐えているのか、思い浮かぶものはひとつだけで。


「トイレ?」


 耳元でそっと訊ねると、綾音は耳まで真っ赤になった。
 柚樹から見ると小さな身体が大きく震える。綾音は助けを求めるかのように顔を上げると、目に涙をためて微かに頷いた。
 柚樹はとっさに周りを見渡したが、プールの中は混雑していてすぐにはプールサイドに上がれそうにない。綾音は繋いでいない方の手をぎゅっと握り締め、唇を噛んでいた。


「大丈夫? 動けそう?」


 首を振る返答が返ってくる。かろうじて平静を保っているようにも見えるが、もしかするとかなり切羽詰まっているのかもしれない。
 どうにかしてあげたいが、この状況ではどうすることもできない。
 もっと早く言ってくれればよかったのに、と思ってしまうが、彼女のことだから恥ずかしくて言い出せなかったのだろう。付き合い始めてまだ三ヶ月ほどだが、彼の前でなかなかトイレに行きたいと言えない性格であることは理解しているのに。自分も配慮が足りなかった。


 このまま、無理に彼女を連れてプールを上がり、トイレに向かうのは現実的ではないだろう。きっと途中で間に合わなくなって余計に恥ずかしい思いをさせてしまう。
 せめて周りの人から少しでも距離を置くように、柚樹は綾音をそっと抱き寄せた。


「ゃ……!」


 突然動かされたせいで我慢が効かなくなったのか、綾音が顔を歪める。しかしすぐに堪えるように、太腿をきつく寄せた。ほとんど密着している状態で向かい合う。
 綾音は彼の肩に顔を埋めるようにして、ぷるぷると震えていた。


「……ん、も、できな……」


 微かな呟きが耳に入る。
 大丈夫だと言うかのように、柚樹は彼女の髪を優しく撫でた。
 ぶるるっと、綾音の肩がふいに大きく震えた。彼女は悲鳴を飲み込むように歯を食いしばって、ぎゅっと目を瞑っている。縋り付いてきた綾音を抱き留めると、ほどなくして腰の辺りの水がもわあっと温かくなるのを感じた。


(う、わ……これは、ちょっと……)


 しょろしょろと流れてくる水ではない液体。その温かい感触になんとも言えない気分になる。けれど当の綾音は耐え難い羞恥心を感じているはずで、柚樹は必至に理性を総動員した。
 僅かな時間が経ち、温かい水流の流れが止まる。


「……大丈夫?」


 それまで身体を硬くしていた綾音がほっとしたように力を抜いたので問いかけると、小さな頷きが返ってきた。


「先ぱ……ど、しよ……こんなとこで、漏らし……」
「大丈夫だよ。たぶん誰にもバレてないから」


 いまにも泣き出しそうな声で呟く綾音を安心させるように囁く
 幸い、周囲にいる人たちは遊ぶのに夢中で彼女が粗相をしたことは気付いていないようだった。
 ひとまず、早くプールから上がらせた方がいいだろう。


「俯いて具合悪そうにしてようか」
「え、」
「大丈夫だから」


 戸惑う綾音に告げ、横抱きで抱え上げる。


「すみません、連れが具合が悪くなったみたいなので通してください」


 そう言って人混みを掻き分け、水の中を歩いていく。
 泣きそうな顔で震えている彼女の姿は、冷えて具合が悪くなったようにも見えるだろう。なんとかプールサイドまで辿り着き、そっと下ろすと綾音はその場にぺたんと座り込んだ。


「綾音ちゃん、大丈夫? 早く気付いてあげなくてごめんね?」


 俯いて顔を見せてくれない彼女の髪を梳くように撫でる。しばらくそうしていると、綾音はゆっくりと顔を上げた。濡れた前髪が額に張り付いている。八の字に眉を下げた表情はいまにも泣き出しそうで、けれど必死に涙は零すまいとしているのがわかって、そんなところがまた健気で可愛らしいと思ってしまう。


「先輩、ごめんなさい……また、迷惑かけちゃって」
「迷惑だなんて思ってないよ」


 涙目になっている綾音に、にっこりと笑いかける。
 それは本心だった。初めて会ったときも、初デートのときも。彼女が粗相する姿は何度か目にしていたが、迷惑だとも、嫌だとも、思ったことは一度たりともなかった。


 今日、プールに誘ったのは自分だ。受験勉強続きの夏休み、遠出は難しくてもせめて可愛い恋人と近場で息抜きに遊びたいというお願いを彼女は叶えてくれた。想像していた以上に可愛い水着姿を見せてくれて、他の人の目に少しも入れたくないと思うくらいだった。
 そんな綾音を泣かせてしまうことは忍びなかった。


「……シャワー浴びてきて、お昼にしようか?」


 落ち着いたのを見計らって声をかけると、綾音はようやくぎこちない笑顔を見せてくれた。

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