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まれびと

 ちりん、と風鈴が涼しげな音を奏でる。
 ――ああ、帰ってきたのかな。
 振り返ると、視界に入ったのは長い黒髪と白いワンピース。一年前と変わらない風貌をした姉がそこに立っていた。


「おかえり、姉さん」


 声をかけると、姉は嬉しそうに微笑んだ。

「久しぶり、葵。元気だった?」
「見ての通り。それなりに元気に生きてるよ。菖蒲姉さんは?」
「私も見ての通り」


 毎年繰り返される挨拶。交わすのは他愛のない言葉。それでも私は、姉が帰ってきてくれることが嬉しかった。


「学校はどう?」
「どうって言われても……一応楽しい、かな。仲の良い友達はいるし、学園祭も盛り上がったし。部活は大変だったけど、楽しかった。もう引退しちゃったけど」


 私は言葉を探しながら姉の質問に答える。


「いいなー女子高生! 私も戻れるものなら戻りたいわー。それで、肝心の勉強は?」
「……この前の期末試験、学年で八番だったよ」
「あら、凄いじゃない」
「今回は結構頑張ったよ。数学は平均点ギリギリだったけど」
「あなた昔から数学苦手だったものね。よーし、後で優しいお姉様が教えて差し上げましょう!」
「じゃあ、お願いします」


 私が律義に頭を下げると、姉は楽しそうにころころと笑った。――よかった、笑ってくれた。


「――葵? 何ぼうっとしてるの? お盆なんだから準備手伝って頂戴」


 ふいに、廊下を通りかかった母に声をかけられた。私は気怠げに「はぁい」と返事をする。躊躇いがちに姉を窺うと、彼女はほんの少し寂しそうな笑みを浮かべていた。

 高校三年生の冬、姉は交通事故で死んだ。
 雪の降っている日だった。姉はセンター試験の会場に向かう途中で、スリップした車に撥ねられた。
 あまりにもあっさりと、姉の十七年の生涯は幕を閉じた。
 当時中学二年生だった私は、姉の死を受け入れられなかった。両親や親戚や姉の友人達が涙を流すなか、私だけは泣けなかった。


 ――だって、おかしいでしょう?


 明るくて、しっかりしていて、友人も多くて、成績優秀だった姉。小さい頃から教師になることを目指していて、毎日必死に勉強していた。
 センター試験当日、家を出る前に「お姉ちゃん、頑張って」って声をかけたら、笑顔で手を振って出かけていったのに――死んだなんて嘘でしょう?


 私は学校に行かなくなった。何もやる気が起きなかった。生きる気力がなくなった。
 なんで私は生きているんだろう。勉強もスポーツも全然できなくて、友達も少なくて、大人しい、姉とは正反対な私。
 ――姉の代わりに、私が死ねばよかったのに。


 そんなことばかり考えていたら、気が付けば季節は巡って夏になっていた。学校は夏休みに入っていたけれど、どうせ半年以上行っていなかったから、何も変わらない毎日だった。つまらない日々だった。
 いつの間にかお盆になっていて、両親に連れられて行ったお墓参りから帰ってくると――部屋の中に姉がいた。
 「おかえり」と当たり前のように笑っていた。昔と変わらない笑顔だった。


 私は驚いて声も出なかった。なんで、どうして。聞きたいことも言いたいこともたくさんあったのに、頭の中がごちゃごちゃして言葉にならなかった。
 姉はただ優しく微笑んで、私を抱き締めてくれた。
 「ごめんね」と優しい声で囁かれて、私は初めて、泣いた。まるで幼い子どもみたいに声を上げて泣きじゃくった。
 お盆の三日間、姉は私の部屋に居座った。色んな話をした。勉強も教えてくれた。
 姉は所謂「幽霊」とは違う存在だった。少なくとも私はそう思った。


 なぜなら私には霊感と呼べるものは一切なかったからだ。それに、姉の姿は透けてもいなければ足もちゃんとあった。
 けれど、姉の姿は私にしか見えなかった。姉の声が聞こえるのも、姉が触れることができるのも私だけだった。
 もしかしたら、私の頭が勝手に作った幻覚みたいなものかもしれない。それでも構わなかった。姉に会えて、私は救われた。


 夏休みが明けて、私は学校に行くようになった。三年生の新しいクラスは知らない子が多くて初めは慣れなかったけど、仲の良かった子もいて少しずつ馴染めていった。勉強もスポーツも、頑張るようにした。姉の分も私が精一杯生きなきゃいけないと思った。それが私の生きる理由になった。


 姉は毎年、お盆の時期になると私の前に現れた。

 夜になっても蒸し暑い。私は部屋の窓を開け放って、机に向かっていた。宿題の数学の問題集を開いたけれど、数問解いただけで手が止まる。


「姉さん、数学教えて」


 振り返ってそう言うと、姉は嬉しそうに頷いた。
 姉は勉強を教えるのが上手だった。教師を目指していたのだから当然かもしれないが。
 姉に教えてもらうと、なぜ躓いていたのかが不思議なくらい、するすると理解できた。


「葵、いま何年だっけ?」


 ふと、姉はそんなことを尋ねてきた。


「高三。どうしたの、いきなり」
「そうだった……私が死んだ時と同い年なのかぁ。来年からは宿題教えてあげられないわね」
「……来年は大学生だもん。宿題なんてないよ」
「大学、どこ目指してるの?」


 ぴたり、と問題を解く手が止まった。いつか聞かれると思っていた。私は間が不自然にならないうちに、志望校を口にした。


「そこって……」
「私が行きたくて決めたの。本当だよ」


 思わず強い口調で言ってから、しまったと気付く。姉は苦笑に似た笑みを口元に浮かべていた。
私の志望校は姉が受験しようとしていた大学だ。学部も同じ教育学部。


「そんなことしなくていいのに」
「違う、私は本当に……」
「葵は優しいね」


 姉の方がよっぽど優しい声音で言う。泣きそうになった。


「ねえ、私のことなんて気にしないで。葵の好きなように生きて」


 私は懸命に涙を堪えながら、小さく首を振った。できないよ、そんなこと。
 勉強は好きじゃない。本当は大学にだって行きたくない。でも、好きなようになんてできない。
 ――姉さんのために生きる以外、私はどうしたらいいのかわからないんだもの。

 お盆の三日間はあっという間に過ぎてしまった。
 午後三時を回ると、母が買い物に出かけて行く。それが、姉とお別れの時間だ。
 不思議なことに、姉は帰ってくる時は突然現れるのに、家を出る時は必ず玄関から出て行く。妙なこだわりがあるみたいだ。
 玄関まで見送りに行くと、ふいに姉は真剣な表情になった。思わず、私は息を呑む。


「葵。私のことを忘れてとは言わない。でも、私のために生きようとしないで。自分のために生きて」
「なんでっ……そんなこと……!」


 姉がいきなりそんなことを言い出す意味がわからなかった。私が呆然としていると、姉はいつものように優しく微笑んで、私をそっと抱き締めた。姉の身体は温かかった。


「私は死んだの。本当はここにいない存在なの。あなたが心配で帰ってきてたけど、私のせいであなたを縛りたくはないのよ」


 姉は諭すように私の耳元で囁いた。ちくりと胸の奥が痛くなる。


「あなたは強い子よ、葵。もう私がいなくても生きていけるわ」


 私は耳を疑った。それ、どういうこと?


「……もう行かないと」


 姉の身体が離れる。踵を返した姉の腕を、私は咄嗟に掴まえた。


「お姉ちゃん、待って!」


 姉は驚いたように振り返った。しかし、すぐに花が咲くように微笑む。


「来年も、帰ってくるよね?」


 私は泣きそうな顔で恐る恐る尋ねる。思わず俯くと、ふわり、と頭を撫でられた。


「元気でね」


 つう、と頬に雫が伝った。温かな手がそっと離れる。視界から姉の身体が消えた。堪らず、私は玄関を開けて庭に飛び出した。
 蝉が煩く鳴いている。頬に当たる風が生ぬるい。

 ――姉の姿は、夏の空気に静かに溶けていった。

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